字を覚えると、文字情報に触れることで世界が広がる一方で、ある種の能力がしぼんでしまうような気がする。
うちの5歳児がひらがなをマスターする前は、絵本を渡しておくと、絵を見ながら、覚えている内容を朗々と口述していた。口承の民話みたいな感じだ。
時々、話が迷子になると、自分で勝手に話を作っていた。ディズニー絵本の「美女と野獣」だと、「べるは、どれすにきがえておおあばれ!」とか。語彙も少ないぶん、かえって斬新な表現を使ったり。
字を覚えてからは、そういう愉快な創作や表現をあまりしなくなってしまった。必死で文字を追う姿に成長を感じる一方で、母はちょっとさみしい。「字なんか今は覚えなくていいのに〜」という保育園の先生の気持ちも、わからんでもない。が、覚えちゃったもんはしょうがない。
文字をもたない民族は、どんなふうに脳を使って、情報を蓄積しているんだろうか。そういう民族の言葉と、書き言葉を活用する民族の言葉とでは、なにか役割に違いがあったりするんだろうか。小さい頃から活字中毒であり、耳から情報を得るのが苦手な私にはちょっと想像がつかない。
私は、目の前にあるものを、書き言葉でカテゴライズして頭の引き出しにしまってしまうが、そのことで、かえって本質を取り逃がしてしまっていることがあるような気がする。
2008年03月19日
字を覚えるということ
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「チューリップ」っていう「名前」を知ってしまうと、「これは、チューリップだね、はいはい」って片付けてしまうよね。
名前がわからない花に出会うと、「田舎の空のような青色で、ふわっとした花弁が5枚で、葉が柔らかで繊細な感じ」って、よーく見つめるでしょう。
だから、花に名前なんか要らないんだ、というような話だったかな。
「ふむふむ、なるほど」って、妙に納得しちゃったな。
よく、目の不自由な人の嗅覚や触覚が鋭いって聞くよね。子どもの絵が本質を捉えていたりね。
可能であれば、文字を覚える前に戻ってみたいね。
そう、まさにその「花の名前」の主張のようなことを考えてたんだよね。
逆の主張もあって、
中学だか高校の教科書では、「日本語は雨に関する語彙…時雨、霧雨、土砂降りなどなど…が他言語よりも多くて、それだけ日本人は繊細に雨のことをとらえている」というような説明文があるんだよね。
言葉があることで捉えられることもあるけど、言葉によって縛られたり、切り捨てられたりすることもあるんだよねー。
言語表現だけでなく、絵画表現、音楽表現でも同じようなことはあると思います。教育というのは、枠をはずれる芽を摘む剪定作業でもあるんだろうな。
まあ、その選定にめげずに芽を伸ばすのが天才・異才ということなのだろー。